on 2011年9月18日 by djmagimix in 灰色試訳, Comments (0)

音楽産業と音楽愛好者〜ベンヤミンを超えて

1996年9月、欧州音楽局(EMO)は「欧州のなかの音楽(Music in Europe)」という調査報告書を公開した。この報告書の後半は「欧州のなかの音楽、文化、そして社会(Music, Culture and Society in Europe)」というタイトルがつけられ、ポール・ルーテンが編集したものであった。それは、欧州連合のなかにおける音楽の文化的価値について、6つの批評的な試論と五つの事例研究を収めたものである。本論は、アントワーヌ・エニョンが音楽の世界におけるアマチュアの役割について、同報告書のために書いたものである。

ヴァルター・ベンヤミンにより表明された考え方の主なものの一つは、「機械的複製の時代に消えてなくなるのは、芸術作品のアウラだ」というものである。人が芸術作品に「アウラ」を感じることは、本質的に、「本物の」作品と物理的に向き合っている状態と結びつけられている。今日、レコード産業は、音楽演奏のアウラを、彼方に追いやってしまった。これにより、能動的な音楽愛好者はまるで過去からの生き残りのような位置づけにされてしまってきたように思える。アントワーヌ・エニョンが、音楽愛好者の研究を通して、そうではない結論を導いている。

概要

音楽の「ブーム」は、音楽を愛することは豊かで独創的な実践であるとして人々を引きつけ、また利用可能なありとあらゆる手段や方法、そして儀礼を利用し、必要に合わせて音楽をつくりなおすことで、レコード産業から音楽教育まで、音楽のすべての領域に影響をあたえてきた。本論文では、音楽愛好者に関するエスノグラフィックな調査を今日行うことの目的、方法、価値について扱う。音楽の聴取や演奏の際に動員される対象物やしぐさ、ヒトやモノとの接触について、特に注意が払われる。こうした行為は、単に「既存の」嗜好の現実化ではなく、コンスタントに定義を変えつづけ、それにより常に部分的に不確実で開かれた結果を生み出すものである。

余暇時間の音楽活動

「今日、1960年以前に生まれた人たちに比べ、音楽活動を経験したことのある若者の数はほぼ倍増している」—35-44歳層におけるアマチュア音楽家の割合は22%に過ぎないが、15-19歳層におけるそれは40%に及ぶ(cf. Développement cultural, 1995, 107)。特に青年層における音楽の「ブーム」は、CDの膨大な売上や、この世代の人間がほとんど例外なく広義でのロック音楽を好むということの単純な裏返しではない。この現象には、未曾有の音楽教室の増加がついて回ったのである。その発端は60年代にある—1960年以後に生まれたフランス人の15%が音楽教室に通ったことがあるのに対し、35歳以上人口ではそれが8%に過ぎない。

「余暇時間に実践される芸術活動」に関する調査—O・ドナ氏の監修のもとフランス文化省・調査予想局が行った—のおかげで、この現象を検証することが出来るようになった。同調査によれば、過去12ヶ月のあいだに、十人に一人のフランス人が、なんらかの音楽活動—楽器演奏、歌唱、合唱、などなど—を実践したことになる。このことは、自分自身の音楽を創るアマチュア音楽家の能動的な特性と対照させて消費者の受動性を強調する議論とは全く逆に、60年代からのレコード市場とメディアオーディエンスの急増は、常にアマチュア音楽家の音楽実践の増大と釣り合うかたちで進行して来たのだ、ということを示している。聖歌隊や合唱隊の活動は、特にバロック音楽再評価の影響下において、宗教や諸団体との過度に排他的な関係を解消し、「音楽そのものを楽しむ」ものとして、新しい形態で続けられている。

この「アマチュアの復権」からは、質的な結論が導きだされなければならない。音楽演奏の、この本質的な裏側は、すべての領域から追い立てられてきたこと故の、関連性の薄さでもある。音楽史は、作曲家だけに注目して歴史を説明してゆくなかで、音楽愛好者を葬り去ってしまった。この分野の文献は作品に光を当てつつ、聴き手を無視する。嗜好の社会学は個人の嗜好という幻想を反映させるためにしか、音楽愛好者に利益を見いださない。そこで言われる個人の嗜好というものは、実際のところ、本人には知り得ないかたちでそれを決定してしまう社会的メカニズムの反映に過ぎない(e.g. P. Bourdieu, 1979)。音楽愛好者はまた、「缶詰音楽」論のなかにおける悲観的な立場によっても追い立てられている。つまり、レコード産業の技術的機能と商業的欲望により、彼は、画一化されたプログラムを受け取るためにボタンを押すだけの操られた消費者へと永遠に変換されてしまうのである。

もう少し杜撰なバージョンとして、わたしたちは、一方で理想化され、他方では恩着せがましく過去からの生き残りと看做される音楽愛好者のために留保された扱いの中に、ヴァルター・ベンヤミンの有名な論文「機械的複製の時代の芸術作品」(1936)のアンビヴァレンスを見いだすことが出来る。アウラに頼ることが意味していたのは、どちらに転んでも彼は正しかったということである。芸術の規格化された近代的複製は、真の存在の真正性を解消してしまった—しかし、その真の存在というもの自体が、実は古くさい宗教的な人工物、つまりアウラ、に過ぎないのである。一方では、近代というものを弾劾する。近代は、その機械的複製と経済的規則への従属により芸術を商品に(そして音楽に対する愛情をレコードに対する消費活動に)変換してしまったというのだ。しかしその一方で、同じアウラ—それは階級支配により作品の上に盛りつけられた飾り物に過ぎないのだが、それにも拘らず—の消滅を悲嘆する反動的な懐古主義に対しても同じくらい痛烈な批判を行うのである。

ベンヤミンの悲観主義的な観点からは、嗜好についての二重の否定概念が露呈する。まず、嗜好というのは単に作品の裏側である。しかしそれは、それ自体商品に変換されてしまった作品、つまり物体化された作品の裏側である。この否定概念は、非常に広く受け入れられているが、音楽愛好者の研究を下敷きにしてわたしが本論文で反駁したいと考えているのは、まさにこの概念に他ならない。観察するに、音楽愛好者がこれほど研究対象として活発であったことはかつてない。受動的なアマチュアなど存在しないのである。言い換えればむしろわたしたちの方が、音楽への愛情がもつ多様性や独創性を理解するための範疇をほとんど持たないのである。これは、単なる嗜好の問題ではなく、「行為(doing)」である。音楽愛好者とは、自分にとって利用可能なありとあらゆる手段をつかって自分のために自分の音楽をつくりなおすのであり、嗜好の学術的な布置や正統派的慣行などにはほとんどお構いなしだ。アマチュアの復権とは、追放されたものの帰還についてわたしたちが語るときと同じような意味で、音楽についての新しい視点をもたらすものでなければならない。故に音楽史は、作品ではなくアマチュアに基づいたものとして、つまりアマチュアを、儀礼や宗教、あるいは政治的な役割から音楽を解放しようとする努力の中で漸次的に成長してゆくものとして捉えたものとして、書き換えられなければならない。これが、現在わたしの行っている調査の目的であり、本論文はその成果の一部を公表するものである。

アマチュアの復権

音楽界の奇異なる存在、それこそが音楽愛好者である。わたしが、特に用心することもなく、この少し時代錯誤的な行為者を追跡しようと思いついたのは、間違いなく、常に出動体制で待機し、誰も求めていない社会の一角にスポットライトを当てようと考える社会学者の邪悪な欲望によるものであった。しかしながら、次第にアマチュアの特性が明らかになるにつれ、わたしには思いもつかなかったような重要さを、彼は持ち始めたのである。彼は、わたしが彼の周囲に鋳造した鋳型をあっという間に吹き飛ばしてしまった。つまり、普通に考えれば、アマチュアというのは、あらゆる意味で自由な実践をする者として、プロフェッショナルと対比して表される。彼は、自分の余暇時間に、「楽しみのために」あるいは「自分自身のために」演奏する。あるいは、より意地悪な言い方をするなら、アマチュアのイメージというのは、同時に、いまや消滅しつつあるような形式を利用して音楽を実践することを敢えて声高に主張することにみられるような、残余的な実践を暗示するものである。これは例えば、ヴァイオリンを弾く医者だ—素人としては見事なお手並みである。彼は日曜日には医者仲間を見つけて弦楽四重奏を演奏する。あるいは、それぞれのロックスターの演奏のまねをしてお互いをびっくりさせあう楽器自慢の友人同士である。あるいは収集品を執拗なまでに細かく分類し、CDやそのほかの人工的録音方式を毛嫌いする、古い蝋管や黒い円盤のコレクターのことである。あるいは、ピアノの心得があり、それどころか最高レベルの演奏技術を修得し、いくつかのアマチュア向けコンクールで優勝したものの、結婚をきっかけにすべてをあきらめ、そして自分が失ってしまった世界を一生羨み続ける良家出身のお嬢様のことである。あるいは、小さくて過酷で壮観な環境における形式張った儀式を自分から進んで禁欲的に実践するオペラ狂のことである。あるいは、あっといわせるような楽譜を演奏したいというのと同じくらい、大ジョッキ入りのビールを一気に飲み干すことに熱意を持つ、陽気なミュージックベル奏者である。あるいは、歌を歌うために聖歌隊に通うのか、聖歌隊に通うために歌を歌っているのかにわかに判断しかねている、少し不器用な若者である。

しかしながら、ほんの少しだけ定義を調整すれば、アマチュアというのはいとも簡単に音楽の世界の中心的な立場を回復することが出来る。チューバを演奏させろと言い張る少々ばかばかしい親戚のお上りさんであるどころか、彼は、プロの演奏家や技術や市場要因が牛耳る音楽的環境とありとあらゆる意味で同じくらい近代的な存在なのである。彼自身も変化し、音楽のユーザーとして定義する必要があることを認めなければならないだろう。それどころか、彼なしではプロフェッショナルな環境も、技術も、市場要因も理解できないのである。このように、アマチュアには時代錯誤な要素など一つもなく、むしろ、わたしたちは、彼が歴史上初めて、彼の周辺に全面的に再構築された音楽的環境の唯一の的となっていることに気がつき始めているのである。わたしたちの祖先の真正な音楽実践の近代的な修正版はプロの音楽家ではなく、アマチュアなのだ。確かに歴史をさかのぼってみる限り、長期にわたる修行を経て、コミュニティのために演奏をする責任をあたえられるのは、専門的な音楽家の集団である(cf. Rouget, 1980)。しかし、すぐにわたしたちは、アマチュアという立場の存在は、西洋世界という空間的にも時間的にも限定された現象であることに気がつくはずだ。

アマチュアが「音楽を愛好」出来るようになるためには、そのような生存条件が不可欠なのである。アマチュアとは、音楽への愛情を象徴する本物の神話的な人物が、専門家の世界に迷い込んでしまったものではない。彼は、とても長い話の終着点なのであり、困難を伴いつつもその魔術的な機能や群衆を恍惚へと導き信仰を促す役割から音楽そのものを抽出し、それを芸術に変換し、少しずつ音楽に自律性をあたえて来た存在なのである。この気の遠くなるような長い労苦の末、プロの音楽家はトランス状態であったり祈祷中であったり、あるいは喜びに恍惚とするコミュニティのために演奏することはなくなり、好むと好まざるに拘らず、圧倒的大多数のアマチュア—ここで言うアマチュアとはアマチュア音楽家のことではなく、同時に音楽ユーザーでもあるような音楽愛好家のことである—によって構成される市場のために演奏するようになったのである(cf. Hennion, 1993, 297-350)。

聴取空間

こうして考えると、音楽は、ありとあらゆるメディエーションの局地的かつ不確定な生産者であるというその能動的な特性を明示することにより、もう一つの嗜好の社会学の条件を示唆しているのかもしれない。嗜好というのは、多義的な目的を持った、実生活におけるデリケートな葛藤なのである。レコードコレクターの音楽への愛情から日曜ピアニストのためらいがちな演奏に至るまで、地元のブラスバンドの毎週の集いからオペラへの情熱に至るまで、専門店のレコード棚から大規模なロックフェスに至るまで、これらはすべてパッケージ化された施設(facilities)である。こうした施設は、アマチュアと音楽を一つにつなぎ止め、特定の経験を通してその双方を常に定義し直す。コンサート会場に入ったあなたは、情け容赦ない心持ちになっているはずだ。あなたは周りを信用せず、懐疑的で、計算高く、既に知っている他のバージョンに従って比較したり、判定したりする。あなたは残酷に腰を据え、演奏の弱点が露呈するのを待ち構えるだろう。

これが、近代的な音楽空間であり、あらゆる人間の頭の中にある巨大なレコードコレクションであり、FNACであり、ヴァージンメガストアである。そしてここがわたしたちの出発点である。コンサート会場から出ながら、あなたはまだ躊躇している。あなたは周囲の人たちの表情をちらちらと見ながら、退屈して時計を見ていた瞬間と、待ってましたと、おそらくは、感じた瞬間とを天秤にかけている。そして、個人的に音楽的センスを信頼している友人との喫茶店での議論を経て初めて、あなたは躊躇をやめ、このイベントに関するあなたの記憶は安定する。それと同時にほんの少し前までの自分の不確実性など忘れてしまうのである。

それではなぜ音楽は、他の何よりも新しいアイデンティティの表現にかくも適しているのであろうか? 音楽が世界に滲出し、そしてある世代の存在を示す重要な記録になっているとしたら、その理由はおそらく—といって音楽の自己同一化の仕組みをあらかじめ方向付けようとするわけではないが—、音楽というものが、それを利用するものやそれを捉えようとするものに、世界を制作するそのやり方—N・グッドマン(Goodman, 1990)の言葉を借りれば—についてのアイディアを提供するからなのではないだろうか? 音楽聴取と嗜好は、たとえそれがロックミュージシャンの再録音盤や、クラシック音楽愛好者のレコードコレクションに関するものであっても、受動的ではあり得ない。楽譜や教師が自分たちのギターをジミ・ヘンドリクスのギターのように鳴らせることを理解しようとしないロックミュージシャンたちの練習風景からは、レコードを聴くことと、グループでの実践と、楽器の熟達の間には全く連続性がないことがはっきり見て取れる。

もう一つの事例としては、バロックの流行がある。全く同じ運動が見て取れるのだ。もちろんバロック愛好者が皆ロック愛好者であるとまでは言わないが、規制の音楽史観に対抗するために彼らが強制した解釈の刷新は、アマチュアの嗜好に基づいたものであることは明白である。このようにして、バロックブームはラジオを手段として、またコンパクトディスクという新しい技術的媒体の目覚ましい躍進にも助長され—クラシックのプロ音楽家たちと対立するかたちで市場を制覇したのである。これはつまり、部分的には参加者も気がつかないうちに、同じ物語が繰り返されたということだ—それは、確実に自律したものとしての音楽と、ますます忠実度を増す後押しとしての音楽メディアと、アマチュアという聴衆の需要により構成される音楽市場という三つが平行して発展するという物語である。つまり、アマチュアの方に向かえば向かうほど、音楽は販売可能な商品であり技術的な製品としての姿に近づいてゆくということだ。

わたしたちの近代的な音楽的「工夫」—レコードやラジオやスター—と対立するどころか、アマチュアはむしろこれらの産物なのであり、これらの独占的な消費者なのである。彼は最近結婚した音楽と市場の御曹司なのである。音楽と市場の結婚は、技術によって音楽を商品やサービスに返還することが可能になって初めて成就することができたのである。

広範な実践

先に引いたDEP(文化省・調査予想局)の調査では、アマチュアの音楽実践—ここではあらゆる形態およびあらゆる頻度での楽器の演奏や歌唱としてゆるく定義されている—は広く行き渡っていることが明らかにされている。15歳以上のフランス人の三分の一がなんらかのかたちで音楽実践を行っており、人生のなんらかの時点で、音楽活動に携わってきた(楽器を演奏したことのある人が26%、合唱隊に属したことのある人は13%で、その合計は33%を上回り、またそのどちらも経験のある人は7%に及んだ)。現実は、音楽を実践するひとの多さから考えれば幅広く、またその実践の多様性という面から考えれば拡散したものである。実際、音楽実践には、すぐにやめてしまう場合から、より集中的な、生涯をかけた取り組みに至る多様性がある。この傾向は、他の芸術活動に比べても音楽に特徴的なものである—若い時の、音楽をやめてしまおうという願望に抗って続けた場合、多くの人が長期にわたって音楽活動を継続する傾向がある(アマチュア音楽家の三分の一は25年以上にわたり音楽を実践している)。そして、すぐにやめてしまう人と、いつまでも続ける人の間には、程度の差はあれ時々音楽を実践する人々もいる。

またこれらは、既に文化実践や音楽教育に関する調査(Cogneau and Donnat, 1990; Hennion et al., 1983参照)により既に発見されているように、音楽実践のあり方を決める一連の基底変数(社会的出自、社会的性役割、音楽の初学年齢、家庭内での音楽の存在—音楽はミメティックな芸術である)を提供し、また、音楽キャリア上の達成内容(アマチュアどまりか、プロになったか)についての重要な中間変数—つまり、なんの楽器か、どの学校か、どんなレパートリーか、どのような功名心か、など—も提示する。これらの中間変数は強固に定義され、非常に決定的である。結局のところ、これらは、演奏実践が孕む、特に嗜好と文化的慣習行動に関するある種のパラドクスを明るみに出す。すなわち、音楽の好き嫌いは、少なくとも好き嫌いの度合いとして計測した場合、演奏実践にはほとんど影響を受けていないのであり、その一方で文化的慣習行動については、演奏実践そのものよりもアマチュアとしての演奏実践に適合した環境の有無の方が相関性が強いように思われる。要するに、活発に演奏をしているアマチュア音楽家の半分以上が、過去十二ヶ月間に一度もコンサートに行っていないのだ。つまり、これら二つの要素はお互いに独立したものなのである。

アマチュアによる音楽実践に顕著な特徴の一つは、それが年齢と強い連関性を示していることである。15-19歳層の活動的なアマチュア音楽家の数は、35歳以上のそれの3倍に及ぶ—22%に対し8%。音楽実践のミメティックな性質は、音楽へのアクセスのにおける二つ目のフェーズに見いだすことが出来る。両親が慈悲深くそれでいて強力な圧力を行使する幼少期が過ぎると、その正反対の状況が生まれる青少年期がやってくる。この時期に、青少年は成人たちの願望に対立して、ロックと結びつけられた楽器—ギターやドラムス—を、大抵の場合既存の音楽教育の外側で演奏するようになる。例えばギタリスト全体で見ると、「誰の力も借りずに」あるいは友達から演奏を倣った人が最も大きなグループを構成する。また、楽譜を読める演奏者の割合は、85%に及ぶ他の楽器の演奏者に比べ、ギタリストの場合は61%、歌手の場合は51%に過ぎない。

ただし、一つの年齢集団が大量に音楽実践を行っているからといって、それ以外の広範な実践を無視するようなことになってはならない。例えば、聖歌隊は、このところ数多くの成人初心者を惹きつけている。合唱隊は、若い時に音楽しなかったことを悔やむ人たちに、音楽を実践する機会を提供しているのだ。他方で、ブラスバンドやロックグループや様々なタイプの合唱団の華々しいイメージ以外の音楽実践も忘れてはならない。アマチュア音楽家の半数以上にとって、音楽実践とは、家の中で一人ピアノで好きな曲を弾くことを意味するのである。さらにいえば、使用される楽器の種類によって大きな多様性があり、またレッスンやグループ練習、合唱団や楽団の会合などにより様々に左右される—その一方で、45%のギタリストが「自分が弾きたいと思ったら弾く」と答えている—実践の数量化が困難を極めることに変わりはない。

アマチュアたちのプロフィール

アマチュア音楽家を対象としたわたしのエスノグラフィックな調査の狙いは、まず最初に彼ら自身の言葉を通して、それからさらに、彼らの実践をエスノグラフィックに分析することを通して、音楽に対する彼らの愛情がなにを意味しているのかということにもう一度立ち返ってみることである。この研究は、例えば一連の作曲家の名前を尺度として利用する分類とは大きく異なる。このような尺度を用いた場合、アマチュア音楽家間の差異というのはほとんど見いだすことができないのである。

アマチュア音楽家を観察し、分析することは、音楽実践の意味に立ち戻り、一方であまりにも作品中心的で、他方であまりにも社会的挙動に重きを置きすぎてきた音楽史のバランスを修復することである。アマチュア音楽家たちの言葉を追えば一目瞭然であるように、音楽を演奏し、聴き、愛するそのやり方には数多くの創意に富んだ、様々なやり方がある。また、そのための方法や手段—コンサート、メディア、グループ演奏、個人演奏—にも豊かな多様性があり、これらは同時に存在し、またそれを通してお互いがお互いを絶え間なく定義し直しているのである。

このことから、わたしたちが注目すべきなのは、聴かれている音楽(作品、様式、作曲家)ではない、ということがわかる。聴かれる音楽に注目することには、称揚—つまり他のファンに自分の気持ちを伝えるのことに喜びを感じ、そしてなによりも自分の好きなものを利用して自分の素晴らしさを祝福しようとする、ファン特有の礼拝式を行おうとする(そして分析という大義名文のもとそれを何度も繰り返そうとする)誘惑—と共犯関係を結び、さらには自己満足に陥る危険性を常に孕んでいるのである。そうではなく、わたしたちは、独自の契機や道具、準備、気分の浮き沈みという情緒的な効果を伴う実践としての聴取そのものに注目する。別に心理学の助けを借りる必要はないのだ。わたしたちの目的は客体から主体の方へ歩み寄ることではない。実際の生活の中である作品を実際に聴くことで、音楽「そのもの」(あるいは逆に嗜好の主体に関する自己内省)に特権的に注目することが隠蔽してしまう様々な音楽的特性、あるいは、それぞれが自分だけに特別なものであると考えるにも拘らず実際には全く平凡で、取るに足らない、些細な日常的な出来事であるが故に日陰に追いやってしまう様々な音楽的特性を見つけ出すことなのだ。要するに、始めに受容的な主体ありきで、その主体を知覚された客体と対比させようとするのではなく、聴取の平凡な関係から出発し、そこから音楽分析のほうに天秤を戻し、両者間を結びつけようというのである。

このことは、アマチュアをより広義の「音楽ユーザー」として定義し直すことにつながる。これは、音楽へのあるつながりがより「アマチュア」として真であるとか、偽であるとか、そういうことを予断するものではなく、アマチュアが自分たちの楽しみのために作り出す多様な組み合わせに道を開くものである。ここでは、レコードへの情熱も、グループでの演奏や一人での演奏への情熱と同様に視野に入れる必要があり、また、メディアや楽譜、レコード、そしてコンサートの利用形態も、楽器を演奏したり歌を歌うことと結びつけて考えられなければならない。ここで挙げたような聴取実践を、演奏実践と相対するものとして捉えてはいけない。これらは相補関係にあるのだ。そしてなにより、下に掲載するインタビューの引用からもわかるように、片方なくしてもう一方を理解することは不可能なのである。

[女性、28歳、クラシックピアノ。社会的地位のある地区の立派なアパルトマンに居住、ステレオセット、レコードとCD—ただし特に言及すべき特徴はない。非常に遠慮がちに話す。すべては言葉にするまでもないことで、わたしのインタビューの狙いを理解出来ない。クラシックの楽譜がいくつか]

わたしは7歳のときに、あるいはもっと前かしら、その頃ピアノを始めました。母や兄と一緒に演奏したの。兄は、わたしのピアノの先生の旦那さんにヴァイオリンを習っていました。当時のように定期的にではないけれど、ピアノのレッスンはいまも続けています。X(パリ理工科学校)を卒業してからも、毎年先生の年末発表会で演奏しています。前回は、「ハ短調ソナタ」(もちろんリストの)まで演奏したわ。ちょっと野心的だったわね。

フォーレ、ショパン、シューマン、そういう偉大なピアニストが好きです。ラヴェルも良く弾きます。それから室内楽も、お友達や、わたしの先生と、その教え子のご兄弟たちなどと嗜みます。モーツァルトのピアノ四重奏を演奏しました。それから、Xではブラームスの四重奏も練習したことを覚えています。そうそう、近代的な音楽もいくつかやりました。シュトックハウゼン。悪くなかったわね……。

[男性、37歳、陽気、バンドマスター、クラリネット。管楽器のコレクションを持ち、あらゆる種類と様式の音楽のレコードを大量に所有している]

グループで演奏するときは、いつだって最後はめちゃくちゃになるな。ジャズをちゃんとやりたいとか、もっと練習したいとか、そういう連中もいるけど、基本は楽しむためにやっているんだ。難易度の高い演奏も出来るし、ずいぶんいろんなことをやっている。でも何時間も練習したりするのは全く意味がない。作曲家で曲を選んだりはあまりしない。誰も演奏したくないような曲っていうのがある。たとえそれがとても良い曲だったとしてもね。一音間違えただけで、もうもとに戻って来れないようなのは願い下げだ。そういうことがなければ、バッハでもハバネラでもなんでもいけるよ。ただしボサノバは苦手だ。

自分で編曲するんだ。練習に誰が来るかによって、いつも編曲を変えないといけない。うちのバンドにはクラリネットとビューグルが二本ずつ、トロンボーンが一本、サックスが三本いるが、全員集まるってことはまずない。シューベルトもやる。ゆっくり目の楽章ね(いやいや、それは謙遜しすぎかな。アレグロもやるさ!)。ポーレンクもやる。ポーレンクは楽しい。他には……。メンバーが持ち込むものならなんでもやるね。「フーガの技法」もやった—抜粋だけど。ブラジル音楽。サルダナ舞踏やパソとか、南米の音楽はたくさんやる。こんなもんかな。いやしかし、それ以外のものもたくさんやるよ。ブラームスのコーラルとか、一度はエネスコの曲もやった。誰も聴いたことないような曲さ!

メンバーの出入りはあるけれど、実際にはそんなにしょっちゅう入れ替わるわけではない。友達だから。もう何年も前からの付き合いなんだ。時には顔を見せなくなるやつもいるし、メンバーのガールフレンドが参加することもある(とは言ったものの、女性メンバーは少ない—まして自分から一人で来る女性なんて!)。まあそんな感じだ。そうそう、むかしはもっとジャズをやっていた。エリントン—「A列車で行こう」の俺たち版というのがあった—やモンクもやったけど、大抵は古典的なジャズだ。残念ながら即興演奏はあんまり得意じゃなくて、それがジャズに関しては問題だ。いやいや、ロックはならないよ。いずれにせよこの楽器編成じゃね。それに誰も俺たちにロックを演奏してほしいとは思わないだろう。ファンファーレバンドの存在理由はそれじゃないさ。いや、ファンファーレバンドって言ったけど、本当はしがないブラスバンドだけどさ。

もちろん、演奏のあとは大抵飲み会さ。特に演奏旅行のときはね。公園のステージでする春のコンサートとか、おめでたい席での音楽伴奏とか、こういうのはメンバーが一緒になってなにかをやっているっていう実感があるし、終わったあとは大抵みんなでバカ騒ぎになる。これが大切なんだ。俺たちのための三度音程ってとこさ。

[男性、36歳、大卒、造詣の深い音楽愛好者、レコードとCDの膨大なコレクション、頻繁に音楽を聴く、頻繁にコンサートに行く(しかしそれ以上ではない)]

音楽はたくさんやりました。ピアノから始まり、それからいろんな楽器をやりました。特にバロックについては初見歌唱もします。それからクラリネットとサックスもやったことがあります—テクニック的には全然だめですが。わたしが関心を持つのは、演奏することそのものではなくて、音楽なのです。楽器を演奏することは、音楽をよりよく理解するための手段なのです。ええ、わたしは聖歌隊で歌っています。大規模なカトリック聖歌隊で、100人ほどの歌い手がいます(うちテノールは5人)。ド・ラ・リュやヴァン・ギゼゲムなど、レコードによって再発見されたとされるレパートリーの多くを初見歌唱しています。パレストリーナばかり歌っているわけではありませんよ!

レコードはよく聴きます。それからラジオ局のフランス・ミュジーク。そしてフランス・ミュジークに面白い番組がない場合は—よくあることです—ラジオ・クラシークを聴きます。わたしは自宅で仕事をすることが多いので、場合によりけりです。ある日は仕事をしながら音楽を聴くことが絶えられないこともあり、別の日はバッハのカンタータを全部、一つずつ、レコードで聴くこともあります。

[女性、47歳、ピアノ、歌、知識人サークル。たくさんのレコード]

演奏はへたくそよ。でも初見で歌えるわ。歌を始めたのは最近のこと。素晴らしい先生と巡り会えたわ。でも、レッスンを続けるかはわからない。二年ごとに先生を変えるの。いいえ、フォーレとブラームス、そしてバロックのためよ。先生はそれ以外ほとんど好きではないの。まあラモーも歌わされたけれど。なによりも、出来る限りどん欲に音楽に夢中になっているの—お友達とバッハの作品すべてを演奏したわ。

わたしにとって、音楽はなくてはならないものなの。麻薬よ。わたしはとても神経質で、そういうときはすべてを止めてレコードを聴いたり、演奏したり、歌ったりするわ。横になって目を閉じるの—音楽がわたしに生き続けてゆくための手を貸してくれる。音楽は、とても美しいものでもあるわ。コンサートにもよく行く。夫といくこともあるけれど、大抵の場合は一人か、それか一緒に演奏する仲間たちといくことの方が多いわね。世の中は狭いもので、いつもなんとなく招待券を手に入れることが出来るのよ。

[男性、39歳、ロック、給与生活者]

実を言うと、僕はちょっと外れものなんですよ。なんというか、ロックなのにクラシック的な嗜好なんです!だから、僕はそのどっちからも拒絶されてるんですね!ロックは大好きですが、僕にとって重要なのはクオリティです。ダメなロックはいっぱいあります(ラップは置いておくにしても)。これは誰かがはっきりと言ってあげないといけないし、単純にインディーズかメジャーかというような話じゃないんです。お話しにならないインディーレーベルというはたくさんあります。あとヴェルサイユ出身の一連のグループとか。その一方で、僕は様式に拘らず、いいと思う部分が好きなんです。さっき自分のことをクラシック嗜好だと言ったのは、多分こういうことなんだと思います。ハードだったりプログレッシブだったり、ルックスをあれこれ気にすることには興味がないのです。見てください。僕の今日の服は別に普通の人と変わらないでしょう?僕は39歳ですが、そうだとしても、ね。ストーンズを除けば、ストーンズは僕にとって神ですが、むかしはマザーズ・オブ・インヴェンションのような少し知的なグループが好きでしたが、いまならそんなことは言えません。ピンクフロイドやスーパートランプので、流行のドイツの小さなグループみたいに良い曲もあります。自分で見つけにいかないとダメですね。1950年から1980年までにリリースされた名盤はすべて持っていると思います。でも、1980年以降についてはそれほど持っていないです。

でも、もうコンサートにはほとんど行っていないです。むかしのロックグループは退役軍人みたいなもので、みんなむかしのような素晴らしさは取り返すことができないのです(なんて言うこと自体が退役軍人の愚痴みたいですが、実際のところ、ある意味僕もその一人なので!)。そして若手は、もはやほとんどフォローしてないですし、彼らの観客にはうんざりなのです。

[男性、54歳、オペラ愛好者、人事部重役。パテやデッカを中心とした1920-30年代の素晴らしいレコードコレクション。さらにCDのコレクションも膨大]

絶対的にあらゆる音源を持っています。カラスについては全て。しかしカラスを引き合いに出したのは誰もが彼女を知っているからで、他の人気歌手についてもたくさんの音源を持っていますよ!世界大戦間、ご存知だと思いますが、アンリ・ゴライエブのラジオ番組、あの時期の声が好きなのです。いえいえ、歌を習ったことはないです。二、三年、あるいはもっとでしたか、ピアノを習いましたが、あまり好きではありませんでした。それとは全く関係ないのです。良い「ウェルテル」を聴くためだったらなんでもするような心意気だったのですが、もはやそれもありません。バスティーユ(の新オペラ座)は高いし気取っていて、あんなのはオペラ座じゃないと思います。でも、マスネとかそういう本物のオペラが見直されるようになっているようですね。もちろんイタリアオペラが好きですが、ヴェルディよりはルチアです。お分かりでしょうか。よく、オペラを聴くためだけに旅行をしますよ。特にイギリスに行きます。本当の音楽好きはイギリスにいますよ。他には、ウィーンにも行きます。モーツァルトも悪くないです。

[男性、42歳、ジャズ、サックス。ジャズだけの膨大なレコードコレクション。それほど頻繁にではないが、コンサートに行く(「むかしはもっとよく行っていたものです」)。ジャズ関係の雑誌は書籍も多い。中産階級出身、給与生活者]

地下室に防音材を入れて自分でスタジオを作ったんです。作業中に他の人たちに迷惑をかけるのが大嫌いなのですね。音楽をするようになったのは最近のことですよ。35歳のときだから、ずいぶん遅い方です。でも、家族ではいつもジャズを聴いていました。わたしの父は楽器を少しだけやってました(ギターなど)し、レコードもたくさん持っていました。それにしてもわたしは、一度に全ての音符を把握するクラシックの音楽家には敬意を持ちます。わたしは、ハーモニーがよく出来ないのです。これはわたしの耳のせいかも知れません(これは額面通り受け取るべきではない。彼はとても優れた演奏家なのだが、クラシック音楽家がジャズ音楽家の即興能力を尊敬するのと同じように、自分の出来ないことを理想化しているだけなのだ)。いくつかのバンドで演奏しています。友達5人でやっているグループもありますが、要求が高すぎてみんなピリピリしてますね。わたしは普段からどちらかというと非常に多くを要求する人間なのです。

楽しみの作法

上に引いたアマチュアのプロフィールから、音楽との二つの「正統的な」関係(敬意を払うべき芸術作品としての音楽、グループアイデンティティを与える集団的活動としての音楽)の他に、第三の相が立ち現れてくるようにわたしには思える。それは同時にもっと局地的でより個人的であり、利用可能な様々な音楽的施設(facilities)をわたしたちがどう実践的に利用しているか、そのやり方自体と密接に結びついたものだ。それは楽しみの作法、つまり、一連の小さな癖や、実生活において物事をするときのそれぞれの嗜好に相応したしかた、単調なルーチンや段取りや予想外の驚きなどのひとまとまりとしての音楽である。料理好きであれ美食家であれ、どんちゃん騒ぎ好きであれ上流社会風であれ、放蕩家であれ道徳家であれ、演奏をするたびに自分の音楽を作っているのは、アマチュアに他ならないのである—料理好きがその度に献立を作るように。

仕切りは予期していたものとは言いがたい。環境や類型、年齢、そして音楽への入れこみかたにより、実に様々なアマチュア的あり方があるのだ。一方、アマチュア的あり方のどの類型に着目するかにより、楽器演奏や歌唱を実践することとレコードやラジオを聴くこと、そしてコンサートに行くことは、お互いに反発するどころか様々なやり方で相互補完している。まさにこの多様性からこそ、音楽への愛情の形態に関する現代のトポロジーを生み出すことが可能にならなければならないのだが、これまでこうした視点から行われた研究はほとんどない。それは、レパートリーではなく、彼ら「音楽ユーザー」が動員する実践や媒体や装置に基づいた、楽器演奏しかしない人からラジオしか聴かない人(という二つの実際にはあり得ない両極)と、そのあいだに存在するあらゆる種類の、予期しない肥沃な組み合わせによる、トポロジーである。インタビューからの抜粋を使って、嗜好と実践の間の差異の豊かさについて素描することで—まだ直感の域を出ていないが—わたしが強調したいのはこの第三の相である。規律に縛られないアマチュアのアプローチ、彼のやり方の非正統性、正確さと独創性の奇妙な混交が、やがて少しずつ一連の実践に意味を与えてゆき、彼はそれを通して音楽から楽しみを得るのである。

結局、音楽そのものの境界線はあまりにも融通が利かなさすぎるのだ。なぜなら、いくつかの場合において、音楽は他から隔離されたものとしてある実践の輪郭を厳密に描くからである。しかしながら、仲間内での外出やパーティーや同じ音楽を一緒に聴くといったことから、高度に統合された文化的要素の集団に至る、もっとずっと広域な総体の中心として音楽を「再構成」することこそが急務である。例えば、「若者」(当然単純に年齢だけで定義されるカテゴリーではない)の場合、この連続体は服や靴からマンガ、バスケットボールや人気アメリカ黒人歌手にまで及び、さらには言葉遣いや「奇抜な」格好、そして食習慣や集中的なビデオ視聴やビデオゲームも包含する。もちろんこれは、程度の違いはあれ、現代音楽やジャズ、そしてオペラなど、もっとクラシックな、あるいはもっと成熟した類型にも—特定の集団の構成員に共通する特徴を、その外側からマーキングするという社会学的なやり方だけではなく、「構成員」自身が自分たちに共通する一連の実践を通して自分たちのアイデンティティと嗜好の両方を構成するという意味でも—当てはまるものだ。

こうした実践は、儀礼と呼ばれるべきではない。それは、これらの実践をあまりにも性急に「社会化」してしまう。また、同様にこれらを使われた媒体の問題として片付けるべきでもない。なぜなら同様にそれは、これらの実践をあまりにも性急に「具現化」してしまうからだ。そうではなく、身体や、最も物理的な意味での嗜好、そうしたものからレパートリー、言語学的形態や評価方法を含む最も具現化された媒体、そしてその実践が行われるあり方の枠組みとなる形式—時間と空間は本質的要素である—に至る連続体の問題として捉えるべきなのだ。今回のインタビューにおいて、アマチュアたちは、常に根拠の明示を求める聞き手に圧迫されつつ自分たちの実践について語ったわけだが、そうしたインタビュー調査の制約を超えて言うなら、これは活動の連鎖を再構成するという問題である。そこでは、アマチュアを満足させる実践というものが内包する仕草や、楽器やその他の対象物の利用のしかたや、個人的あるいは集団的なふるまいの形式をいかに計測するかが課題となるはずだ。

もう一つの嗜好の社会学

本論文のこれまでの議論から引き出せる仮説の一つは、音楽愛好者の嗜好や楽しみ、そして音楽への愛情についての議論を、嗜好の社会学の重圧から部分的に「解放」することが可能であり、またそうする必要がある、ということである。嗜好の社会学は、この種の感情を、衒学的な、参与者自身には知ることの出来ない社会的ゲームの皮相的な飾り付けだと否定し、押しつぶしてしまった。もちろんわたしたちは、この種の社会学を批判しようとしているのではない。なぜなら、これにより真実のある一面は明らかになるからだ。それよりも、この種の社会学の通俗化による破壊的な効果の方を懸念する。社会学者そのものの認識のされかたに影響が出ているのだ。インタビューに応じたアマチュアたちは、たちどころに罪悪感を感じ、インタビューの真意を疑う。彼は自分の楽しみを恥ずかしいと感じ、自分の言うことがどのような意味に取られるのかを解読し、予期しようとする。彼は自分が自分の実践においてあまりにもエリート主義であることを謝罪し、あるいはロック的な遊山やオペラ好きという儀式的な人格のなかに自分自身を隠蔽する。さらには、彼は、自分に提供されていると考える仕分け箱のなかに自ら進んで入り込み、〈熱狂的ファン(aficionado)〉としての彼の困難な道のりの魅力を構成する対象物や仕草、自分の感じる気持ちや不確かさについて、全く語ろうとしないのである。

わたしは、この調査を通じて、音楽愛好者の間に集合的な聴取形態というものを(わたしの言いたいのは、物理的に共有された行為ということではなく、階層間に共通する、という意味である)、ある程度安定しており、定義可能なかたちで、これまでの時代の形態とは大幅に異なるものとして、見いだすことが出来ると思っている。それにより、音楽聴取の近代的な空間がなにをカバーしているのか明らかになるだろう。もはや昔の音楽は昔の耳では聴いていない、と人が言うとき、わたしたちはそれを、過度に精神心理学的なものか、あるいは過度に社会的なものとして捉えがちだ。そうではなく、両者の中間こそが肝要である—聴かれかたの差異は、深層心理学的な内的な変異にあるのではないし、音楽的意味作用の偉大なる社会構造のそれにあるのでもない。要するにそれは、聴取の一連の新しいやり方と時間のなかにあるのである。わたしたちの現在の聴取が成立する音楽的空間を本当に創出したのは、これら全ての物質的媒介物の急激な変容—これをわたしは、アマチュアの生産と呼ぶ—に他ならないのである。

しかしその上で理解されなければならないことは、これら聴取のための音楽的空間というものは、聴き手の外部にある物理的な空間とは限らず(確かに、コンサートホールやメディア網、レコードのカタログ、ラジオ番組、店頭の什器など、音楽の物質的な要素からわたしたちは話を始めたわけではあるが)、音楽愛好者が再構成した内的な空間でもあるということだ。音楽愛好者は心の中でこうした内的な空間のなかを歩き回り、あるタイトルを選択し、レコードを購入し、あれやこれやの演奏を欲し、ラジオを点け、あるいは消し、ピアノである曲を弾いたりするのである。彼の作品や音楽に対する判断自体は、当該する空間に帰属するのであり、その参照点に高く依存している。社会的に決定された「嗜好」というものは、実際には、特定の社会階層に帰属していることによって直接的に決定されているというよりもむしろ、音楽にアクセスするための示差的な手段、それを持っているか、持っていないか、あるいはそれを使ってどのような自分の慎ましい音楽領域を創出するか、によって間接的に決定されているように思えるのだ。

「平均律クラヴィーア曲集」は会社重役によって聴かれ、「美しき青きドナウ」は下層中産階級と教師によって聴かれると、あたかもこれらの作品が広大な空想上の音楽スーパーマーケットの商品棚から取り出せば「既にそこにあり」、それ自体「既にそこにある」嗜好の差異と対応しているというような、社会的地位による過剰な決定論を振りかざす前に、人が音楽作品と出会い、それらを自分の音楽空間に統合し、それらに耳を貸し、自分にとって当たり前のものにしてゆくその経路を再構成する必要がある。さらには、音楽は適格だが唯一の事例ではない。そのさらに向こう側にある本研究の目的は、嗜好の社会学に、その対象物を見ることもなく葬り去ってしまわないためのチャンスを取り戻すことにある。そうすることの価値は、本論文によりやっと片鱗が示唆されたに過ぎない。

参考文献

  • Benjamin, W. (1936), “The work of art in the age of its mechanical reproduction.” Reprinted in Ecrits français. Paris: Gallimard, 1991, 140-171.
  • Cogneau, D., and O. Donnat (1990), Les pratiques culturelles des Français, 1973-1989. Paris: La Découverte / La Documentation française, 1990.
  • Bourdieu, P. (1979), la Distinction. Paris: Minuit, 1979.
  • Développement culturel, June 1995.
  • Goodman, N. (1990), Manières de faire des mondes. Nîmes: Éd. J. Chambon, 1990 (trad. M.-D. Popelard).
  • Hennion, A., et al. (1983), Les conservatoires et leurs élèves. Paris: La Documentation française, 1983.
  • Hennion, A., et al. (1993), La passion musicale. Paris: Métallié, 1993, 297-350.
  • Rouget, G. (1980), la musique et la transe. Paris, Gallimard, 1980.

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