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ヒップホップ、近代、ストリート:パリ及び東京のヒップホップシーンに関する一考察
初出:安田昌弘「ヒップホップ、近代、ストリート-パリ及び東京のヒップホップシーンに関する一考察」 『ExMusica』vol.4 pp.55-65 2001年
はじめに
ロラン=バルト(1970)は日本を題材にしたエッセイの中で東京の中心は空であると言った。もちろん彼は記号学的な立場から日本を眺めており、またその観察は表面的なものに終始するのだが、東京と、彼が対照させている筈のパリという都市、郊外空間の生成を繙くなら、別な意味で東京とパリの「中心」のあり方、そして「周縁」のあり方の違いが見えてくるだろう。つまり、東京の中心は浮き草のように移動するのに対し、パリのそれは蝸牛のように動かない。パリ市内(intra-muros)とパリ市外(extra-muros)は未だに19世紀中盤に端を発する壁(現在は環状自動車道)によって区切られるが、東京はもはや首都高速環状線や山手線では囲いきれまい。
様々な音楽のジャンル、それらの意味と価値が生産、消費される場所の二都市における競合、階層化についても同じことが言える。パリでは「高尚音楽」と「低俗音楽」の間の関係、つまり中心部から西側に広がるブルジョア区域とモンマルトルからベルビル、ベルシー、イタリー広場を経てモンパルナスに至る東南北の外周部の関係は、その内容を変えつつも、19世紀後半のオスマンの都市計画以来ほぼ変わっていない。確かに近年いくつかの都市化、郊外化政策が実施されたが(例えばオペラ座、国立高等音楽院、国立図書館は市内外周部に移転した)、逆に外周部自体のブルジョア化が推進され、中下層はそれに押され交通の便も悪く低賃金高層団地が林立するバンリュー(banlieues=郊外)に流出している。結局壁の内外の格差は開いたままなのだ。東京では、帝国劇場や歌舞伎座を抱えた文明開化の象徴としての銀座と、活動写真や浅草オペラの流行った世俗な浅草との関係は関東大震災及び新興中間層の郊外化とともに1920年代に崩壊する。60年代になると23区の人口は減少し、70年代には東京都全体の人口増加率が0に近づく。昼間人口が夜間人口を上回り、交通網の発展とともに東京を取り巻くいわゆる首都圏の人口は急増する。吉見(1987)が言うように、東京の盛り場は新宿と六本木、原宿、青山、渋谷へと地滑りし、1991年には都庁自体が新宿に移転する。ほとんどの中下層にとってこれらの盛り場はもはや自宅の近隣ではなく、通勤、通学で経由したり休日に遊びに行く場所である。パリの音楽の分布が、界隈(quartiers)として、いわば面的なものとして立ち現れるとするなら、東京のそれは、例えば同じ渋谷にレコ村と文化村があるように、むしろ折り重なった線的なものとして立ち現れると言えるかも知れない。
パリ、東京という都市空間の構造化する構造に、ヒップホップの正統性の根拠である「ストリート(路上)」が如何にして接合しているのかが本稿の主題である。一言で「ストリート(路上)」の文化生産と言うと誤解を招くかもしれない。オスマンや煉瓦街などの近代都市計画が目指したのは街自体の巨大なメディア化であり、現代にあっては「路上」という場所自体複雑に交錯する交通網、通信網なしには存在し得ないのだ。まして日仏の音楽出版産業やレコード産業が、ある種のポピュリスト的幻想と結びつきながら、「路上」を大衆音楽が生まれ、流布されるメディアとして19世紀末から取り込んできたことは言を待たない。本論ではむしろヒップホップにおいて「路上」がこのようなメディア化にも関わらず「路上」として–つまりある種の共時的で無媒介な場所として–自然化されている事実に注目する。多くの面で、ヒップホップとはブルデュー(1992:95)の「卑俗に向かう卓越化(distinction vulgarisée)」あるいは南田(1998:577)の「下方向卓越化」に準えうる文化実践であり、近代社会空間内で卓越化に向けて水路付けられている以上、反社会的とされるヒップホップも「象徴物であるとともに商品でもあるという二面性」(ブルデュー1993: 112)を持ち、ヒップホップ「場」の自律化は、「物質としての作品の生産者」(op. cit.:37)だけでなく「その作品の意味と価値の生産者」(op. cit.:37)の生成と時を一にする。私が注目するのはむしろ後者–レコード会社、ラジオ局、出版社、レコード小売店、ナイトクラブなどを含む複数形の音楽産業–であり、それらの中でヒップホップの正統性がどのように生きられているのかを記述することである。まずヒップホップ自体の変成と日仏両市場への伝搬の過程の概略を説明し、それからそれぞれのヒップホップ市場について、「ストリート」という文化生産の媒介回路(アタリ1977)がどのように形成され、またそれに関わる仲介者たちが「ストリート」に対してどのような境界意識を持っているのかを記述することにしたい。
1. ヒップホップの生成と伝播
一般的に、ヒップホップとは、70年代ニューヨークの低所得者層の住むサウスブロンクス地区の若者たちの間でうまれた文化実践であり、アメリカの黒人文化としての文脈で語られることが多い。路上で行われるブレイクダンス、公共物に自分の名前や所属するグループのサインを描き込むグラフィティ、レコード音源の一部を複数のプレーヤで反復してダンスビートを作り出すブレイクビートDJ、そのビートにのせて韻詞を紡ぎ出すラップがその主要4分野とされるが、曲芸的なダンスや公共物への落書きやレコードプレーヤーを使った作曲は何も70年代のブロンクスで始まるわけでも黒人の発明でもなく、これらの形も名前もない–逆に言えばどこにでもあって注意を引くこともないような–諸実践に「ヒップホップ」という唯一無二の名前が与えられ、それが独特の美学的規則を持ったものとして自律化するには、自発的な(黒人の)創造力、彼らの直接的、共時的な交流の場所としての「ストリート」の対立概念として良識的な(白人)社会と商業主義的なマス(白人)マーケットが発明される必要がある。例えばグラフィティのスタイルの洗練は70年代中盤以降のニューヨーク市警のグラフィティ取り締まり強化と時を一にし(cf. ローズ 1994)、ほぼ同じ頃にそれが知識人の興味を引き(cf. ボードリアール1976)、「作品」としてソーホーのギャラリーに展示され、そこでブレイクダンス等の実演が行われ、バスキア、へリング等の「芸術家」がうまれたのは偶然ではない。1979年、最初のラップレコードの一つ、シュガーヒルギャングによる〈ラッパーズ・デライト〉が発表され、「ラップ/ヒップホップ」という言葉が全米に広がるが、一方でこのグループがレコード会社によって作られたものであること、その詞が盗作であることなどから、ブロンクスの「ストリート」の出自であることをもって「本物」を主張するラッパーたちが現れる(cf. フェルナンドJr. 1994)。ラッパーやDJがレコード制作に水路付けられてくるのはこのあとである。トゥープ (1991)が「奇妙にニューヨーク的な現象」(22)であるとし、フロレス(1994)が「人種と言うよりは、階級、地理、世代、…ジェンダー的なもので特徴づけられていた」(92)としたヒップホップは、80年代中盤以降世界に広げるに連れ、ブロンクス、ニューヨークを越え、「アメリカ」のものでも「黒人」のものでもなく、アメリカ黒人の文化財産として抽象化、美化されてゆく(cf. ギルロイ1993)。また、ディミトリアディス(1996)の指摘するように、文化商品として世界市場に出回るようになるに連れ「ヒップホップの口頭の言説(つまりラップ)が以前の共同体的な文脈から分離し、自由な言葉遊びではなく閉じたナラティブ形態が、集団的なダンスではなく個人的な聴取が助長されるように」(179)なり、ヒップホップがラップとほとんど同義語に変成してゆくことも見逃せない。つまり、MTVやレコード会社などの多国籍文化産業を通じて「商業主義」ヒップホップ市場が世界に拡大するのと全く同時に「ストリート」自体のメディア化は自然化され、ヒップホップの歴史と地理は書き換えられるのだ。
こうしたメディアとの共犯関係なしにヒップホップのパリ、東京への到来、そしてそれぞれの都市空間における正統性の生成を説明することは難しい。つまり、ニューヨークではFab5Freddy等の重要な例外を除くほとんどのアーティストが(少なくとも「神話」の上では)文化生産界へのアクセスを持たない貧民街の若者たちであったのに対し、日仏で最初にヒップホップに飛びついたのは、既存の文化生産界で位置を確立していた文化企業であり、パンクやニューウェーヴに代わる新しい音楽を探していた音楽家や批評家であった。パリに初めてFab5Freddy、Futura 2000、Africa Bambaataaら「本物の」ヒップホップアーティストが来るのは1982年で、当時飽きられ始めていたディスコに代わるダンスを流行らせようとしていた大手ラジオ局(Europe1)や服飾産業の思惑があった。翌83年には、映画『ワイルドスタイル』のプロモーションのためやはりFab5Freddy、Futura 2000、Cold Cut Brothersらが初来日しているが、これも配給会社や百貨店などの援助なしには実現しなかったはずだ。また、最初に日本語でラップを始めた一連のアーティストたちは既に音楽家または服飾雑誌の記者として活躍しており、同様に最初の仏語ラップをFab5Freddyらと制作したのはワールドミュージック系の仏音楽誌Actuelの記者である。
しかしそれだけではない。ヒップホップを一過性の流行として扱おうとするこれらの文化産業に対し、より自発的、共時的な場所としての「ストリート」がほぼ同時期にパリ、及び東京で現れるのだ。確かに米アーティストの招聘や、『ワイルドスタイル』、『フラッシュダンス』等の映画配給、頭角を現した音楽映像メディア(日本では『ベストヒットUSA』が1981年、地上波版『MTV』が1984年に放映を開始しており、フランスでは1984年にTV番組『Hip-Hop』が始まり、1986年には音楽専門局TV6(現M6)が開局している)は両市場においてブレイクダンスのブームを起こし、また現在活躍するアーティストの多くがこれらによってヒップホップの存在を知るに至ったことを認めているが、その一方で東京に於いては吉見(1987)がパルコの空間戦略を引いて説明するような、「町内会的な概念」(アクロス編集部1983: 34-5)を「かなぐり捨て」(ibid.)ることによる渋谷、原宿周辺の「高感度」(ibid.)化に惹かれながらも疎外感を感じていた若者たちが、丁度その中間に位置し、既にローラー族やタケノコ族といった逸脱した踊る身体が露出していた代々木公園の歩行者天国、通称「ホコテン」に「直感で」(Crazy A 1998: 12)集まるようになる。パリではテレビや映画に影響されたバンリューの若者たちがそれぞれの団地の駐車場や公園でダンスを始め、TF1が『Hip-hop』を打ち切り、Actuel誌がヒップホップから距離を置き始め、クラブが騒音、暴力問題などでヒップホップから遠ざかりだすと、再開発の進むパリ外周部、特にラシャペル周辺の「空き地(Terrain Vague)」等で地下パーティーが行われるようになる。
フランス初のヒップホップ同人誌『Get Busy』の発起人シアー(1998)が指摘するように、「最初にヒップホップ使節として世界中で活躍したのはダンス」であり、実際日本でもフランスでも最初にFab5Freddyらのショーを見たほとんどの人がダンスとグラフィティ以外は何がなんだか分からなかった、という感想を持っているようだ。つまり、ヒップホップは越境の過程でダンスと音楽、リズムとメロディ、つまり身体と頭に分断された。図式化してしまえば、導入期のヒップホップに於いては、先端的な音楽家、知識人が音楽面、つまりラップの母国語化を試み、大手のレコード、テレビ、映画会社や服飾産業が大量の音、映像その他の商品を注入し、先端的でないこと自体を卓越化の手段とする若者たちがダンス、グラフィティといった実践を通して「ストリート」の媒介回路を形成し始めていたということになる。ブレイクダンサーにとって音楽はリズムでしかなく、母国語ラップは殊更必要なく、また彼らがラップするような場合でもほとんど例外なく英語が好まれた。米国でヒップホップの中心が次第にラップに移ってゆくことは先に引いたとおりだが、日仏でも先端層の母国語ラップ–例えばスチャダラパーやMC Solaar–がメディアに露出し始め、レコード会社と契約を結びだす80年代後半になると同じ現象が起こる。先端層に異議を唱える「ストリート」のブレイクダンサーたちが次々とラップに転向し、活動の場所を「ホコテン」や「空き地」からクラブやメディアに移すのだ。日本では1990年にスチャダラパーによる《スチャダラ大作戦》がメジャーフォース、翌1991年には《タワーリングナンセンス》がその親会社であるエピックソニーから発表されるが、同じ1990年には「反メジャーフォースの象徴」(ECD 1996: 42)とされる《Yellow Rap Culture in Your House》が、1993年には日本語ラップの没個性を批判したマイクロフォンペイジャーの〈改正開始〉がリリースされている。彼らにとってトニー谷、植木ひとし等のコメディアンに傾倒し、笑いを積極的に取り入れたスチャダラパーのラップは大衆への迎合以外の何者でもないかったのだ。フランスでは1990年にMC Solaarの〈Bouge de Là〉がポリドールから発表され仏語ラップ初のヒットとなるが、同じ年に、前述の地下パーティーの中心的人物であったDee Nastyらの参加する《Rapattitude》がヴァージンから発売され、翌年にはパリ市の北に隣接するバンリュー、セーヌ・サン・ドニ市の郵便番号93を名前に掲げたグループNTM93(NTMはNique Ta Mèreの頭文字)のアルバム《Authentik》が発売される。ジャズを取り入れ、フランス語で気の利いた韻を踏むセネガル系黒人MC Solaarは、その作品の柔らかさだけではなく、「マスコミが欲しがる、フランス社会に同化した黒人のファンタジーに迎合した」(『Black News』 1994: 7)とも批判される。80年代初頭、ミッテラン政権は「差異への権利(Droit à la différence)」を掲げ一時的にせよ多文化主義を目指したのだが、80年代中盤の極右国民戦線(Front National)の盛り返しに折れ、共和主義の名の下移民政策の引き締めと同化政策に方向転換しており、それが多くの場合多人種からなるバンリューの現実と乖離を起こし気味なのだ。余談になるが、このようにしてヒップホップの「卑俗化」が進むと、当初ラップの母国語化に努めた層は徐々により先端的で実験的なハウスやテクノ音楽に流れ出す。これは日仏共通の傾向であり、興味深い。
自律性を高める90年代以降の日仏ヒップホップシーンから眺めるともはやヒップホップを単純にアメリカ黒人のものと言い切ることは難しい。「黒人」性に関してみれば、先に引いたシアー(1993: 135)はマルコムXが最終的に多文化主義に転向し白人を起用しだしたこと、イスラム教が基督教よりも先に黒人を奴隷として使っていたこと、そしてフランスでソウル、ファンクなどの米黒人音楽を聴いてきた層はどちらかというとバンリューのアラブ系移民であることなどを引いて、黒人国家主義がフランスではただの流行にしかなり得ないことを指摘しているし、日本で唯一継続的に日本のヒップホップを扱っている『Front(現Blast)』誌の編集長平沢(1997)は、同誌創刊前後に「黒人音楽雑誌という言い方は変なんじゃないか、っていう意識が強くなってき」たと述べ、逆に「年輩層が多く」「学究肌な読者が多い」黒人音楽専門誌とは違う「ヒップホップ専門誌」のあり方を模索し始めたという。同様に「アメリカ」自体もヒップホップの「源」としてのポジティブな面と、金銭が絡まないと動かない「商業主義の極致」としてのネガティブな面の二面性を持つようになる。日本人アーティストがアメリカのアーティストにプロデュースを依頼したところ、低予算でやるかわりに今後のレコード全ての売り上げの数%を支払う旨の契約を迫られたとか、フランス人ラップグループがアメリカのアーティストをレコーディングに呼んだものの、アメリカのアーティストは1テイクだけ録って、2テイク目からは超過料金を要求した、という類の話は取材中にも良く耳にしたし、その都度(米国ほど商業主義に侵されていない)ローカルシーンの「健全さ」が再確認されるのだ。
2. ローカルシーンの自律化と「ストリート」の専門化
このように複雑で一度に世界的かつ局地的な象徴市場のシステムに取り込まれながら、日本とフランス、あるいは東京とパリのヒップホップシーンは自律化してきた。それと同時に、大手文化産業のそれとは差異化された「ストリート」のメディアが生まれてくる。先の『Get Busy』誌の創刊は1990年だが、同じ頃、オルタナティヴロックを扱っていた全国誌『L’Affiche』がヒップホップに専門化し、1996年には『Radikal』、『RER』といった専門誌が創刊される。『Front(現Blast)』誌がロック雑誌『Crossbeat』から分離したのは1994年で、オルタナティヴロック誌としてスタートした『Remix』誌編集部も同じ年にヒップホップ担当の記者を雇うことになったという(若野1997)。パリでは1981年のミッテラン大統領当選とともに合法化された海賊ラジオ局の一部が完全に主流化し英米のロック、ポップスを中心に若者向け全国ネット商業局として確立する一方、一部の音楽専門局やバンリューのコミュニティー局がヒップホップを定期的に聞かせるようになった。日本の現在の電波行政では音楽専門局はほぼ不可能だが、多くのインサイダーが指摘するように、日本に於いてはレコード小売店がラジオの役割をしている。1990年のHMV渋谷店、ヴァージンメガストア新宿店の開店を皮切りに外資系大型輸入盤店が急成長し、一方で渋谷の宇田川町等の通称「レコ村(レコード村)」にDJ用のアナログ盤を中心にした輸入盤、中古盤専門店が軒を並べだす。もちろん、それまでの「ストリート」が無媒介だったといっているわけではない。代々木の「ホコテン」やラシャペルの「空き地」は常にマスコミの扇情的な報道と共犯関係にあった。ただ、「商業主義」ラップの成功の裏返しである「ストリート」ヒップホップの隆盛は同時に「ストリート」媒介回路の自律化、客体化、そしてそれに携わる者たちの専門化(professionalisation)を促す。ここでは視点を切り替えて、東京及びパリにおける「ストリート」媒介回路の生成を追ってみたい。
2-1. 東京
私が東京でフィールド調査を開始する直前の1994-5年にはスチャダラパーとロック歌手小沢健二の共作による〈今夜はブギーバック〉やEast Endとアイドル歌手市井由理の共作による〈Da.Yo.Ne〉等が数十万枚から数百万枚のレコードを売り、同時に、小さな独立レコード会社や原盤制作会社が次々と生まれ、「ストリート」性を主張するアーティストのレコードが多数リリースされた。〈今夜はブギーバック〉の制作を担当した藪下ディレクター(1996)によれば、スチャラダパーやEast End x Yuriの成功によって日本のヒップホップ市場全体の「底は上がった(つまりマイナーなものでも数万枚は売れるようになった)が、上が変わらない(つまりスチャダラパー等のメジャーアーティストの売り上げは伸び悩んでいる)」という。つまり、これらのグループの商業的成功の恩恵を最も享受したのは、それを否定する「ストリート」のヒップホップなのだ。
では「ストリート」のヒップホップとは何なのだろうか?そしてそれはどこにあるのか?WEA Japanでダンス音楽専門のサブレーベルを準備中であった若手プロモーター、越智(1996)は「リアルでハードコアでアンダーグラウンド」な、「女子供には媚びを売らない」ヒップホップのシーンが東京に出来つつあるとし、こう続けた。「『Front』とか『Rugged』といった専門誌や同人誌には日本のラッパーのインタビューとか載ってるんすけど…不気味なくらい問題意識持ってるんですよ。『今の日本の社会は管理されててヤバイよおまえら、早く気がつかないと。流れに流されちゃいけないよ。よりリアルなものを見極めろ。…そういうリアルさを見失っているおまえらはカスだ。流行っているから(クラブに)来ているおまえらもカスだ。流行っているからやっているマザファッカDJはさっさと失せろ。サッカーDJは消えろ』みたいな。」つまり、「ストリート」は主流社会に対する異議を唱えるところであり、同時に「リアルさを見失っている」ものたちや「女子供」を排除する空間である。それは先述のマイクロフォンページャーの制作を担当したファイルレコードの女性ディレクター、岡田(1996)が「ヒップホップはどう見たって実力本位の男社会」で「(仕事上の)信頼関係を得るには男の人以上に(得意先に)しつこく付きまとう必要がある」と認めるところだ。
岡田は日本の音楽産業全体にヒップホップに対する無理解があると指摘する。「いわゆるコアな雑誌とか、そういうの分かっているレコード屋さんは違うんだけど…ある意味一般的なそういう媒体とか店頭の人っていうのは、ヒップホップってまだまだ特異なジャンル、特殊なジャンル扱いみたいのがやっぱりあるんですよ。そういう部分ではまだまだ厳しいかなあ。…だから『Fine(サーフィン等を扱う服飾誌)』では(記事スペースを)とれても『Seventeen(少女向けの服飾誌)』ではとれないとか、タワーは良いけど、新星堂はダメとか…。」つまり、ヒップホップ空間と非ヒップホップ空間はある程度物質的に分断されているのだ。『Rockin’ On Japan』誌山崎編集長(1997)はヒップホップの「扱いづらさ」について「(ヒップホップは)現場のノリとか、そういうのが非常に重要な音楽だと思うんですよ。で、僕は現場に首突っ込んでるかって言うと、全然突っ込んでないんですよ。…現場のノリというのは分からないんですよね。要するにCDという形でだけ、僕は接しているんで、あとは単独のライブとか、ロックバンドと同じように接しているんですよ。」と述べるが、この見解はこの分断の構造性をより明確化している。『Rockin’ On Japan』誌の読者層の大半が女子中高生なのに対し、『Front(現Blast)』誌のそれが男子中高生なのは偶然ではない。しかしそれ以上にここでは個人聴取を前提とするロックの批評対象としてのCDと、「現場」でのより集団的な聴取、あるいは踊りに向けられたアナログ盤という商品の流通回路に注目してみたい。
周知のように多くの場合、アルバムの発売に前後してシングル盤が発売される。現在ではシングル盤も8cmCDとして発売されることが多いが、ダンス音楽に関しては、クラブ等での使途を考慮して、いわゆる12インチのアナログ盤として発表されることが多い。大型で重いアナログ盤はCDに適応化した全国的な流通網にのりにくく、都市部の限られた地域でしか流通しない。更に、予算の少ない独立レーベルでは販売促進や配給用の予算は限られており、1995年に渋谷のクラブCAVEを母体に発足したVortex Recordsの加倉井取締役(1996)の指摘するように、アナログに関しては、「一応営業はかけるけど、やっぱり一番東京が多い。九州だと5枚とか、東北なんて3枚。で、注文した店員が1枚買って」という状況があるため、「アナログは限定で近所のみ」になりがちなのだ。同社の槙ディレクター(1996)は「東京のアナログのお店でだったら(日本語ラップの)売れる枚数は(アメリカのラップに比べ)遙かに逆転してい」るとし、日本語ラップが「東京という狭い範囲内ですけれどね、やっと認められた」と指摘する。つまり「マス」と「ストリート」の関係はCDとアナログ盤の関係とほぼ相同をなし、それはそのまま全国と東京–特に渋谷近辺–との関係に相同する。
渋谷宇田川町近辺に集中するアナログ盤専門店には、店側でもそれが「シーンの活性化に繋がれば逆にこっちに返ってくる」(佐藤1997)という意識があるため、海賊版やミックステープをはじめ、国内外のリリース情報、ナイトクラブ等におけるパーティやライブの情報の記された無料のチラシや情報誌が所狭しと置かれ、他では得られない、「ストリート」の、また「本物」のアメリカのシーンにより近い、口コミ情報の軸としての機能を果たす。こうした空間に存在することはレコード会社にとっても重要である。大手メーカーAVEXの傘下にあり、Buddha Brand、You The Rock等多数のラッパーと契約があるCutting Edgeレーベルの藤原ディレクター(1997)は大手として全国でCDを売る一方で、「局地的なプロモーションとか、消費者に近いプロモーション」の必要性を強調する。彼によれば、Cutting Edgeでは「出かけるときはチラシを忘れずに」を合い言葉に自分の足でフライヤーやステッカーなどを置いてくれる店を訪ねて廻るということだが、大型店は既に営業スタッフが廻っているので、必然的に渋谷、新宿の輸入盤専門店、中古レコード店、それから洋服屋等が中心になるという。断られることも少なくない。実際、宇田川町には長い間日本語ラップを軽視して取り合わない店が多く、現在でも認められるまでには厳しい選別がある。輸入盤専門店店頭でアメリカのラッパーの作品と並べて陳列されることは、日本人ラッパーにとってある種の聖別でもあるのだが、宇田川町のある専門店の店長の言葉を借りるなら、「(専門店は)シーンをリードして行かなきゃいけないから、今、猫も杓子もJ-Rapなんて言っているじゃないですか。それをそのまま、ハイそうですか、と受け入れるわけにはいかない」のだ。このようにアナログ盤にはただ単に商品である以上にアーティストとオーディエンスをある特定の場所に結びつけるきっかけとしての役割が期待されている。「売上げ的に言ったら、例えばアナログだと8千枚くらい、百万円売れたところで、コストもかかっているからそんなに大して売上も立たないんだけれども、お客さんていうのはやっぱり確実にアナログを欲しがるので、…だったらアナログ盤、マイナスが出なければOK的な考え方で、出しても良いんじゃないか、という気がある」と岡田は言う。
アナログ盤の一部は販促用サンプルとして一部のDJらに配布される。日本はラジオ局がテレビ局よりも少ない珍しい国であり、さらに「シャ乱Qと一緒にラジオでかかることを意識して作」(浜野1996)られたEast End x Yuriの楽曲やいくつかのCMタイアップ楽曲等を除くとラップの内容やトラックの完成度の低さなどによるイメージダウンを心配する局が多いため、深夜の限られた時間を除いて日本語ラップが電波媒体への露出することは少ない。このため、ファンがアーティストの作品を音として聞く機会はレコード店店頭での試聴か、クラブプレイに限定されてくる。藤原はCutting Edgeが意識的に進める「ストリートプロモーション」を以下のように説明する。「都内のクラブに行ってチラシとか蒔いたりしますし。DJにサンプル盤渡したり。もちろん、じゃあ、どういう具体的な効果が出るかどうか、って言うのはあれですけれども。まあ、そういう人たちが騒ぐというか。そういう中で口コミも始まりますからねえ。それはデカいですよね。まあ、これはほとんど都内ですよね。」アナログ盤専門店への販促同様、クラブDJへのプロモーションも足を頼りにせざるを得ず、都内ではクラブの集中する渋谷、新宿、六本木といった地区に限られてくる。多くが指摘するように、サンプル盤をただ渡すだけではなく、DJと顔つなぎをしてダンスフロアの最新の動向を知ることが大事なのだ。また、多くのクラブが未成年の入店や深夜営業を禁止するいわゆる風営適正法の規制とすれすれのところで、取材をしたあるクラブオーナーの言葉を借りるなら「ある一定の条件が揃わないと生き延びられない…天然記念物」的な状況で営業をしている。人気の頂点にありながら強制的に閉店、あるいは休業になるようなものも多い。永井(1991)が指摘するように日本に於いては踊る身体は明治以来公衆の目から遮断されてきたわけだが、こうした、物理的に「地下」に限定された回路の中でアナログ盤がプレイされるわけだ。その点では本来売買されるべきでない海賊盤やミックステープの並んだ専門店店頭も同じことで、「ストリートプロモーション」は、こうしたヒップホップの局地的な「ストリート」に入り込み、それを通してある特定の文化的正統性を保証しつつ、作品に経済的価値を付与する。藤原によれば、ストリートプロモーションは「手間暇かかって大変なんですよ。時間かかるし。でも、即効性がありますからね」と言うことだが、そこには「シーンを大切にしてゆきたい」、「シーンを作ってゆく」という狙いがあるのだ。
2-2. パリ
フランスでは1995年にAlliance Ethnikの〈Simple et Funky〉が百万枚を越えるセールスを達成する。多くのラッパーが大手レーベルとの契約に成功し、また、マルセイユのIAMのように地方都市のグループも登場する。1996年には放送媒体の使用する音楽の40%以上をフランス語表現を使った楽曲とすることを義務づけるクオータ制度が施行された。この制度の事実上の目的は、ほぼ英語の楽曲のみを紹介し若者に大きな人気を獲得していたFun Radio、NRJ、Skyrockの全国ネット3局に仏アーティストの曲を使わせることにあったが(ブートン1996: 419)、中でもSkyrockは「ラップ一番手(prémier sur le rap)」を掲げエアプレイ枠の70%をラップ、その半分を仏語ラップに改編し(ビュール1998: 84)、IAM、Doc Gynéco、Passi等のアーティストをスターダムへと導いた。一方、以前からヒップホップを扱っていた局はSkyrockをSkyrapと呼び、「流行っていれば何でもする」(シアー1998)と揶揄する。セーヌ・サン・ドニ市にある非営利ラジオ局、Paris Fréquence Plurielle(FPP)でボランティアとして週末深夜のヒップホップ番組を担当するクラレル(1998)は、FPPの狙いは「バンリューの問題を告発すること」で、「ヒップホップ番組がたくさんあるのは、それが告発する音楽だから」とし、「今じゃシャネルを着た金持ちまでヒップホップを聞いて喜んでる。悪趣味な!…(うちの番組は)ストリートの声なんだよ。俺たちはずっと前からここにいるってことさ」と言う。1996年には映画『憎しみ』のサウンドトラックに収められたMinistère A.M.E.Rの〈Sacrifice de Poulets(Pouletsは「警官」の俗語)〉が内容が暴力的であるとして告訴されたり、1997年には極右国民戦線の圧力でNTMがコンサートから下ろされたり、会場で警察官を侮辱したとして送検されたり、「『憎しみ』よりもっと本物」(ニコラ1998)とされる映画『Ma 6-T Va Crack-er』の上映がボイコットされるなどの事件が相次ぎ、バンリューの「ストリート」の真実を告発する「ハードコア」ラップと、「16区(パリ西部)の小ブルジョアもセーヌ・サン・ドニ市の子供たちも同時に聴いて」(ゴミス1998)いる「歌謡曲(variétés)」ラップの対立が先鋭化する。
しかしラップの商業化を批判するクラレルの主張は、それ自体によって逆に彼の扱う楽曲や招待するアーティストにある特定の価値と意味を積極的に付与している。また、彼の「ストリート」への正統性の主張は、言わば「ラジオの場」内の卓越化競争に接合されているわけで、その意味ではこの「ストリート」は既に電波によって抽象化されたものとしてパリ及びパリ郊外の聴取者(「15から25才の若者。バンリューの、あるいはパリにいるバンリュー出身の若者」(クラレル))によって共有されているわけだ。確かに彼の番組にはレコード会社との契約の有無に関わらずアーティストが無償で参加し、また、「ビジネスとは関係なく、自分たちの意志で」(クラレル)ボランティアとして関わる総勢2百人あまりのスタッフは、報酬を受けるどころか局設備の維持のため逆にそれぞれ月50フランの参加費を払っているくらいなのだが、しかしその一方で一部のスタッフにとってFPPを通して名を知られ、また技術を身につけることは関連業界に職を得るための見習い期間としての一面を持ち、参加するアーティストにとってFPPは特定の聴取者に露出する好機としてあることは否定できない。実際、私が放送中の彼を訪ねた際も、自主制作でレコードを出したという地元の高校生グループがフリースタイル(ラップの即興)をし、ミックステープをリリースしたばかりのDJが飛び入りで出演し、コンサートやパーティーの日程を告知して欲しいという電話が相次ぎ、また、関係者がチラシやステッカーや告知用の自作ジングルの録音されたカセットテープをもって来局していた。
FPPでは、局の知名度が小さく、また組織的な対応体制もないため、電話をかけて催促でもしない限りレコード会社がサンプル盤を送ってくることは稀だということだが、そうした不自由さによって逆に別の戦略が生成している。つまり、「レコード屋に直接話をするんだよ。分かる?シャトレ(Chatêlet-Les-Halles:パリの中心部にあり、バンリューを繋ぐRER(Reseau Express Régional:首都圏高速鉄道)の交差する主要駅)に小さい専門店がいくつかあるだろう?そこに行って、協力してくれないか相談するわけさ。それでレコードをもらってきて、そのかわり店の宣伝をしてあげるわけ。間接的にね。広告とは違うんだ。助け合いってことだな。」(クラレル)ということだ。大型量販店との競合を避けるため、小型店が専門化、特にダンス音楽に関してはアナログ盤への特化することは日本でも同じだが、1979年にレコードの価格が自由化されているフランスでは、スーパーマーケットやFNAC、ヴァージンメガストアなどの急伸により小規模小売店が激減し(1972年に全国で3千店舗あまりあった個人経営のレコード店は、今日では4百店舗もない(ルフェーヴル1998: 124))、パリ市内のヒップホップ専門店はクラレルの指摘するシャトレ-レアル地区の主要2店をはじめ中古盤店などを入れても10件に満たない。アナログ盤自体の市場規模が小さく、コロンビアレコード(SME)のゴミスディレクターの指摘するように「シーンでアクティブな人たちを除くとレコードプレーヤーを持っている人はそれほど多くない」ため、アナログ盤はサンプル配布用に普通千枚、多くて3千枚程度プレスされるに過ぎず、こうしたプロモーションの余り物がCD発売後に一般に出回るに過ぎない。しかしもちろんクラレルのようにサンプルを必要としながらもレコード会社のプロモーション網にかからないDJやメディアはあるわけで、実際には「正規の」ルートをはずれたところで、サンプル用にプレスされた非売品の12インチはヒップホップ専門店にCDよりも前に出回っている。
フランスで最初の独立ストリートプロモーション会社であるWickedのテクサコ代表(1998)はサンプル盤を特定の専門店に「流す」ことはプロモーション戦略上欠かせないと指摘する。「1店につき10枚くらい渡して正式リリースの1ヶ月程度前に店頭に並ぶようにする。プロのDJほど重要じゃないけど、それでも影響力のある奴らが買うわけだ。こういう店にサンプル盤のタイトルを並べるだけでも効果があるわけだし。言ってみりゃポスターと同じ役目を果たすってわけだ。時にはテスト盤を渡すことだってある。例えば土曜日の混んでいるときに店員がこれをかければ、リリースはいつだって聞いてくる輩が必ずいるからね。そうすればリリースの日には奴らがまとめて買いに来るって言うわけだ。」大手レーベルも「ストリートプロモーション」の重要性に気がついているようだ。先述の〈Rapattitude〉を出したヴァージンのレーベル、Delabelのプロモーターであり第一線で活躍するDJでもあるLBR(1998)は「フランスのヒップホッププロモーションはストリートから始まる。…問題はレコード会社のほとんどの人間がノウハウを持っていないことなんだ。だから結局ストリートに近い専門の会社に任せることになる。いつだって同じことさ。ストリートに近いかどうかで勝負は決まるんだ。」90年代後半にはWickedのような独立ストリートプロモーション会社がいくつか生まれている。こうして「ストリートに近い」ということ自体に一定の価値が生まれ、それを経済的価値に変換するシステムが専門化するのだ。
ラジオや雑誌、レコード店やクラブといったメディアのテイストメーカーと呼ばれる人間にサンプル盤を配布することとは別に、ストリートプロモーター達は街頭でイベントやレコードの予告チラシ、ステッカー、絵はがき等の小物やテープを配布し、場合によってはグラフィティを描き込む。パリ市内における「戦略地点」は、まず第一にバンリューの若者を乗せたRERが交差し、ヒップホップ専門のレコード店や洋服店の並ぶシャトレ-レアル地区であり、そして流行に敏感な若者の集まるバスティーユ付近やクラブの多いピガール周辺、そしてコンサート会場付近である。その一方で、90年代中盤、政府はパリ市内における無許可の張り紙を禁止する法案を可決しており、ヒップホップ関連のイベントを知らせるポスター、ステッカーはパリの壁の外に追いやられた。ヒップホップ関連のイベントも巧みにパリ市内から掃討されている。フランスでは法律上興行が6つのカテゴリーに分類されるが、演劇や交響曲等の「高尚」芸術以外の興行–人形劇、芸術キャバレー、カフェコンセール、ミュジコール、サーカス、大道芸等(cf. ポンティエ他1996: 205-28)–には管轄警察の事前許可が必要であり、ある情報筋によれば、パリ市内、特に中心部の数区では申請書に「ヒップホップ」の名前があると許可がおりず、あるいはおりたとしても実際のイベントの数日後、事後的に許可されるというのだ。もちろん周囲の器物破損、喧嘩、騒音等の損害が認められた場合には無許可でイベントを行ったとして企画者だけでなく会場自体の営業権が剥奪されるわけで、パリ市内におけるヒップホップイベントは激減しているのだ。パリ南部のバンリュー、ヴィトリ・スュール・セーヌの同じ団地出身の幼なじみを中心に作られたフランスで最初の独立ヒップホップレーベルの一つ、Payback Recordsのマンド代表(1998)は「(政府は)コンサート会場やクラブをどんどん潰している。でも、みんなクラブで何が起こっていたのかは良く知っているさ。問題だったのは音楽でもそこにいた人間でもない。問題は政府とその未来のヴィジョン、パリのヴィジョンなんだ。連中はパリをオフィスと観光客向けに綺麗に飾り付けた大通りだけにしたいのさ。住人には羽目を外してもらいたくないんだよ。でもそれじゃ理屈が通らないよねえ。だって、住んでいる人がいる限り楽しみが必要だろう。じゃなきゃ戦争だよ。」と指摘する。東京同様パリでもアナログ盤を扱う小型専門店がストリートメディアの軸としての役割を果たすが、東京では繁華街自体が学校や家族の監視から解き放たれた場所として「ストリート」化するのに対し、パリでは市外の市内への抵抗というかたちで市外、つまりバンリューが「ストリート」化する。渋谷を代表する日本語ラップグループはあるが、シャトレ-レアルを代表する仏語ラップグループはないのだ。
3. 結論
以上、きわめて駆け足ではあったが東京とパリの都市空間とメディア空間の構造とヒップホップ文化における「ストリート(路上)」回路の生成、自律化、そして専門化について見てきた。マクロな視点とミクロな視点を交差させるように書いてきて分かったことは、両ヒップホップシーンが見方によって同時に類似性と相違性を持つことであり、サウスブロンクスの路上に端を発するヒップホップのグローバル化とそのパリや東京へのローカル化がある種の有機的、体系的な連鎖関係を持っていることである。つまりこれらは一様に「ヒップホップ」であると同時に、各都市のシーンはそれぞれの都市、郊外、メディア構造、あるいはそれぞれの地理的、歴史的位置づけに接合してゆく中で–そして我々の行った比較という理念的な作業によって–異なったものとして立ち現れてくる。ギデンズ(1990)は近代社会における正統性は「脱埋込機構(disembedding mechanisms)」(22)によって特定の時間と空間を超え「幻灯的(phantasmagolic)」(19)に保証されると指摘する。彼の言う脱埋込機構は「象徴トークン(symbolic Tokens)」(22)と「専門家システム(Expert systems)」(ibid.)からなるが、ここで今や世界的にほぼ共通のフォーマットを採用するに至ったCDやアナログ盤のような録音再生技術や、それを使った音楽生産、販売促進、流通、国際著作権条約など音楽産業に関する諸制度をこうした機構の一つとして考えることは十分可能であろう。こうした意味ではヒップホップにおける「ストリート」というのは必ずしも自明な、無媒介なものではなく、またその生成は文化帝国主義やアメリカ化の議論のような一方通行のモデルでも、あるいはそうした外からの力学を無視した国家主義的な議論でも説明できない。ヒップホップの「ストリート」とは、我々が見てきたように、グローバルとローカルを繋ぐ多くの仲介者によって媒介された、特定の文化資本を経済資本に両替するための契機として立ち現れている(cf. ニーガス1999)。これから言えそうなのは、その生成期にインテレクチュアルな文脈の中でよく言われていた「ポストモダン性」とは裏腹に、ヒップホップは典型的なまでに近代の産物であるということだ。ここでは以下の2点を検討して結論としたい。
第一の点は、ヒップホップの日仏への伝搬とローカルシーンの自律化はギデンズ(op. cit.)のいう「近代のグローバル化してゆく傾向」(177)と切り離しては考えられないということだ。彼によれば近代のグローバル化傾向は「外に向かうと同時に内に向かい、ローカルとグローバルの両極における変化の複雑な弁証法の一部として個人を大規模な諸体系に結びつける」(ibid.)。つまりヒップホップがサウスブロンクスの貧民街からグローバルに拡張するというプロセスとパリ、東京他の諸地域でローカルシーンを形成するのは実は同時的なプロセスなのだ。グローバルなレベルでは、ヒップホップはジャズやロックを経て構造化されてきた大衆音楽における米国の優位性を再生産する世界的なシステムから逸脱するどころかこれを補強していさえいる。例えば米国による媒介がない限り日仏ラッパー間の交流は発生しにくい。世界で最も良く知られるフランス人ラッパーは間違いなくMC Solaarだが、その人気は米国人ラッパーGuruとの共同作業によって得られたものだ。日本に関しては例えばDJ HondaやDJ Krushがいるが、ともに「声」を奪われ、DJとして世界で活躍するのみである(cf. 安田2000)。しかし、ローカルなレベルでは、前述のように「ブラックアメリカ」は「本家」と「商業主義」の二義性を持ち、またローカルシーンの生成と自律化はニューヨークではなく、パリなり東京なりの社会空間の幾何学により強く依存し、場合によっては反アメリカ的、反ブラック的な内容にさえ成りうる。トゥープ(1991: 19)は「どれだけ(ラップが)日本製ヴィデオゲームの薄光の迷宮やクールなヨーロッパ製電子製品に入り込んでいるとしても、そのルーツは結局現代のあらゆるアフロアメリカ音楽の中に見出される」と述べているが、彼の提示した因果関係を逆に捉える必要があるのではないだろうか?つまり、「日本製ヴィデオゲームの薄光の迷宮やクールなヨーロッパ製電子製品に入り込んで」はじめてラップはアフロアメリカンなものとして自律化したに他ならず、それと綿密に相関しながら生成し自律化した日仏のヒップホップシーンもこうした近代諸制度のグローバル化とローカル化のプロセスの大きな連鎖の一環なのだ。大切なのは、これらが「中心なき『記号の世界』」(ギデンズibid.)として–あるいは中心が空の「表徴の帝国」として–起こっているのではなく、中心と周縁と上下構造を持つ文化経済の体系的な連鎖として起こっていることである。
第二の点は、主流秩序に対する抵抗の場としてのヒップホップの「ストリート」は近代の前や後や右や左にあるものではなく、その中にあって自らの差異を生産する場所であるということである。バウマン(1990)は近代とは敵と味方を分類し、曖昧さを無くそうとする弁別のシステムであると論じているが、我々が本稿を通して見てきたのは、言ってみればパリ、東京のヒップホップシーンが反秩序を主張しながらも自らを合理化し秩序立ててきた過程であり、そこでは近代制度を脅かす曖昧さとは全く逆の、明確な(反社会的)意志顕示と(反主流的)位置取りが目指されるのである。反商業主義的な価値観を基礎とする「ハードコア」、「アンダーグラウンド」、「ストリート」といった志向を持ってクラブやアナログ盤専門店に集まる人々は、自ら身体化した空間戦略によって卓越化を目指しているわけで、その意味ではむしろ最も見えやすい顧客層、つまりファンベースとして多くの独立レコード会社の経営基盤になっていることは見逃せない。「ストリート」の媒介回路は、無秩序としてあるのではなく、むしろ自らの作りだした秩序を保守点検し、あるいはその領域を拡大するよう水路付けられた近代資本主義的文化装置であり、ここでは例えば東京のヒップホップにおける渋谷やパリのそれにおけるバンリューといった「ストリート」は物理的、地理的な存在を越えた再帰的なシンボルであり、反抗や抵抗は秩序の一部として制度化され、合理化されており、こうした媒介の回路なしでは「ヒップホップ」を「ヒップホップ」として、また、「ストリート」を「ストリート」として理解することは不可能なのである。もちろんここでアドルノの近代文化産業批判を引くのは見当違いである。方向こそ違え彼の目指す純粋芸術はほとんど同じ論理で卓越化に向かう戦略であることはブルデューの論を引くまでもなく明らかなのだから。
むしろ問題とすべきなのは、音楽産業に対する我々研究者の無自覚ではないだろうか?取材の際にテキサコ(1998)は私にこう言った。「おまえだって同じだよ。おまえの大学院でヒップホップ好きはおまえ一人だけで、クラスの他の奴らはラップなんて聴かないかも知れない。だからおまえの話を聞きたがるだろう。そういう意味ではおまえも組み込まれているのさ。おまえのいる社会環境(milieu)では、おまえはヒップホップのテイストメーカーなんだよ。ヒップホップで何を買えばいいか、みんなおまえに聞くだろう。俺の仕事にとってそういうやつは大切なんだ。」これは実に穿った発言と言えるだろう。「カルチュラルスタディーズ」の名で形容される諸研究の中には、所与のテキストを巡るある特定の–サブカルチュラルな–消費者、聴衆、ファンの能動的な読みとりや意味作用に注目するあまり、意味または価値生産の回路に自らの研究実践が「組み込まれている」ことを省みず、本稿が見てきたような文化生産と消費の間の再帰的な連続性や文化経済の回路を見落としがちのものが少なくない。だがフリス(1988: 12)が正しく指摘するように「音楽の産業化というのは音楽を変えてしまう何かとして捉えるべきではない。なぜなら音楽の産業化というのはまさに音楽そのものが作られる過程のことなのだから。つまり、資本、技術、音楽についての様々な議論が混交(あるいは混乱?)する過程のこと」なのであり、テクストは(それをコンテクストから抜き出すイデオロギーの問題はひとまず置くとしても)このような一連の戦略によって媒介され、生成する。だとしたら、高度近代社会においては、単なるテキスト分析やファン調査、あるいは一枚岩的な産業論を超えてゆくような視座こそが目指されるべきであろう。
参考文献
引用は全て拙訳。邦訳のある文献に関してはわかる範囲で書誌を示したので参照されたい
- アクロス編集部 1983「街の魅力が高感度人間を呼ぶ」in『アクロス』1983年4月号。吉見(1987)より。
- アタリ(Attali, J.) 1977『BRUITS: ESSAI SUR L’ECONOMIE POLITIQUE DE LA MUSIQUE』 Paris: PUF (=1985『音楽/貨幣/雑音』、金子貞文訳、東京:みすず書房)。
- ギルロイ(Gilroy, P.) 1993『THE BLACK ATLANTIC: MODERNITY AND DOUBLE CONSCIOUSNESS』 London: Verso。
- シアー(Sear) 1993 in Desse and SBG (eds) 『FREE STYLE』 Paris: Florent Massot & François Millet Editeurs。
- ディミトリアディス(Dimitriadis, G.) 1996「Hip Hop: From Live Performance to Mediated Narrative」、『POPULAR MUSIC』 vol. 15(2)。
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- バルト(Barthes, R.) 1970『L’EMPIRE DES SIGNES』 Paris: Skira (=1974『表徴の帝国』、宗左近訳、東京:新潮社)。
- ビュール(Bure (de), E.) 1998「Skyrock au Septième Ciel」、『GROOVE』Hors-série hip hop français 98。
- フェルナンドJr.(Fernando Jr., S. H.) 1994『THE NEW BEAT: EXPLORING THE MUSIC, CULTURE AND ATTITUDES OF HIP-HOP』 New York: Doubleday (=1996 『HIP-HOP BEATS』、石山淳訳、東京:Blues Interactions)。
- ブートン(Bouton, R.) 1996「Les Quotas à l’Epreuve des Faits」in 『L’OFFICIEL DE LA MUSIQUE 1997』 Paris: IRMA。
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- ブルデュー(Bourdieu, P.) 1993『THE FIELD OF CULTURAL PRODUCTION: ESSAYS ON ART AND LITERATURE』 ed. and intro. R. Johnson. London: Polity Press。
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- 南田勝也 1998「ロック音楽文化の構造分析-ブルデュー〈場〉の理論の応用展開」、『社会学評論』49(4)。
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- 吉見俊哉 1987 『都市のドラマツルギー 東京・盛り場の社会史』東京:弘文堂。
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- ローズ(Rose, T.) 1994『BLACK NOISE: RAP MUSIC AND BLACK CULTURE IN CONTEMPORARY AMERICA』 Hanover: Wesleyan UP。
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- Crazy A 1998 in Japanese Hip-Hop History編集部編『Japanese Hip-Hop History』東京:千早出版。
- ECD 1996 in 宮内健、北尾修一編『東京ヒップホップガイド』東京:太田出版。
個人取材
(拙訳)
- 越智隆太、WEA Japan邦楽宣伝部。1996年5月。
- 岡田麻起子、ファイルレコードA&R。1996年10月。
- 加倉井純、Vortex Records取締役。1996年11月。
- クラレル(Clarel)、Fréquence Paris Plurielle (FPP) ヒップホップ編成ディレクター。1998年5月。
- ゴミス(Gomis, M.)、コロンビアソニー邦楽A&R。1998年1月。
- 佐藤、シスコインターナショナル制作部。1997年1月。
- シアー(Sear)、『GET BUSY』編集長。1998年7月。
- テクサコ(Texaco)、Wicked代表。1998年4月。
- ニコラ(Nicola)、Crespcule A&R。1998年3月。
- 浜野太郎、エピックソニー邦楽A&R。1996年10月。
- 平沢郁子、『FRONT』編集長。1997年5月。
- 藤原満、Cutting Edge A&R。1997年11月。
- 槙茂樹、Vortex Records A&R。1996年11月。
- マンド(Mande, F.)、Payback Records代表。1998年3月。
- 藪下晃正、ソイツァーミュージック制作部。1996年7月。
- 山崎洋一郎、『ROCKIN’ON JAPAN』編集長。1997年4月。
- 若野行博、『REMIX』編集長。1997年3月。
謝辞
本稿を完成させるにあたり、多くの方々にお世話になった。特に快く取材に応じてくれた情報提供者の皆さん、それから貴重な助言をいただいた先生方、友人たちにはこの場を借りて深くお礼申し上げるとともに謝意を表したい。
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